新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

超ミニ同窓会がありました。

 数日前偶然以前勤務していた高校の卒業生に会いました。その時会った卒業生の方からお誘いがあって、超ミニ同窓会をしました。
 何と出席者はおじさんも含めて3人、場所はおじさんが帰る途中にあるデパートの喫茶室です。しかし、とても楽しかったです。出席した一人は個人で仕事をしており、もう一人は某病院の看護師さんです。
 以前書いたツマクマの訪問看護の看護師をしてくれたのは、今日会った卒業生の1年先輩です。というのは、おじさんはその学校で連続して3年生を担任したのです。
 その学校では看護系コースのクラスを担当しました。その学校では看護師を希望する生徒が多かったのです。本来理系は物理・化学の選択になりますが、おじさんのクラスの場合、化学・生物の選択になるのです。
 ちなみに国立文系だと生物のみの選択でその代り社会が2科目選択ということになります。理系は社会1科目選択です。
 卒業生といってもすでに50才を越えています。以前と違って50才を越えても皆若々しいです。主としておじさんが、卒業生を出した後どうなったかの話になりました。
 その学校に勤務した時おじさんは31才でした。その学校に9年いて転勤しました。次の学校は県下有数の進学校です。県下で進学率が5位以内という学校です。
 3校連続して新設校だったのですが、この進学校からは創立100年とか90年という学校になりました。今日会った卒業生の学校にはあまりよい思い出がありません。
 38年間の教師生活で一番大変だったのが、最初の工業高校です。新卒の上に相手は男ばかり、国語など何の興味もない、機械科や電子科の連中を何とかなだめながら過ごしました。
 次にいやだったのが卒業生のいた学校です。体育会系の学校で今ならとても許されないような体罰の多い学校でした。文人派の中の文人であるおじさんにはとてもつらかったです。
 生徒さんは良い人が多くて良かったのですが、体育会系教師が幅を利かせていたので、苦労したのです。体育教師だけでなく、他の教師にも体育会系の雰囲気の人が多かったのです。
 とにかく、自分のクラスの生徒が目をつけられないようにするのが大変でした。例えば体育の授業について聞きに行くのに、普段から目をつけられている生徒を送ると、何を言われるか分からないので、代理で来ましたと言って、誰が見ても全く落ち度のない生徒をやりました。
 なんだお前が来たのかと言いつつ何の問題もないのですぐ帰ってきます。もちろん、おじさんがその生徒に事情を言って頼んだのです。概して全く問題のない生徒は優しくおとなしいので、担任の言うことをすぐ聞いてくれます。
 おまけにそんな生徒は頭の回転も速いのでおじさんが何を考えているのかすぐ理解してくれました。実際自分が体育教師に会っても何か言われることはないと分かっているのです。
 とにかく、そんな風にして乗り切りました。おじさんの県の場合3年その学校に勤務すると転勤希望を出せます。いつも来年こそ出そうと思って結局9年いました。
 その後勤務した学校は問題なく過ごせました。文人派のおじさんとしてはもちろん進学校の生活が楽しかったです。おじさんの誇りは自分のクラスから現役で東大に2人と一橋に一人、早稲田と東京女子大に生徒を進学させたことです。
 この生徒たちを最後に主任・主事になったので担任をすることはありませんでした。高校の主任・主事と言うのは、銀行の支店の課長のような存在です。
 学校では校長・教頭だけが管理職です。この二人だけでは実務が回らないので、その下に○○主任とか○○主事を置きます。教務主任とか学年主任とかは正式な辞令が教育委員会からでるほどのポストなのです。
 とにかく今日は楽しい一日でした。それでブログを書くのが遅くなりました。明日は授業の後ポスティングの準備なのでブログはお休みです。