新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「天の故郷を目指して」-究極の終活

 今日は日曜日なので教会でした。新年なので教会が終わった後ツマクマの墓参りに行ってきました。墓参りと言うと大げさですが、納骨堂に行って拝んだだけです。
 さて、教会では第二日曜日(1月は第三)に各会が行われます。各会とは青年会・壮年会・婦人会です。もちろんおじさんは壮年会に属しています。
 壮年会では「私たちの信仰」(キリスト教新聞社刊)を話合いのテキストに使っています。今日でテキストを全て終わりましたが、最後のテーマがブログに書いた「天の故郷を目指して」なのです。
 キリスト教の考え方によれば、私たちは神様からこの世界に遣わされその使命が終わったらまた神様の元に帰るというものです。
 時々おじさんの使命は何なのだろうかと思うことがあります。自分では自覚していない何かの使命があったのかもしれないし、これからその使命がわかるのかもしれません。
 そのため、キリスト者にとって「地上ではよそ者であり、仮住まいの者」だとも言えます。この世を仮の宿りと考えるのはキリスト教だけではありません。
 鴨長明方丈記にも「仮の宿り」という言葉がでてきます。日本でも同様の考え方があるのでしょう。現代人はこの世が全てだと思っています。
 ある本では宗教の死あるいは終焉という考え方を打ち出していました。宗教が終焉すると思っているのは世界中で日本くらいでしょう。多分明確な宗教観念が薄いからだと思います。
 宗教が本当に終焉するなら、イスラム過激派やアメリカのキリスト教福音派などの問題がなくなるでしょうが、とてもそんなことが起こるとは思えません。
 人は死ぬとどうなるのかという問題は最大の哲学的命題です。もちろん同時に人はどこから生まれるのかという問題もあります。仏教の輪廻の考えを使えば、人は死んで生まれ変わるということになります。
 キリスト教の場合、死はこの世の生の終わりで、本来のふるさとへ帰るということになります。ですから、教会では人の死を召天と言います。
 文字通り、この世の使命が終わったので天に召し返されるということです。今の終活は残された人への配慮が中心です。
 しかし、究極の終活は自分が死んだらどうなるかを考えることだと思います。死後の事務処理(遺言など)いつでもできますが、死んだらどうなるかはすぐに答えが見つかりません。
 長い時間をかけて探すものだと思います。明日は友人のミヤジイと久しぶりに会います。