安息日を覚えてこれを聖とせよ。
今日は日曜日なので教会ネタです。先日「パウロ」(岩波新書)を読み終わりました。今は「浄土真宗」(中公新書)を読んでいます。片やキリスト教、片や仏教ですがどちらも興味があるので読みました。
安息日とはキリスト教では日曜日です。主日とも聖日とも言われます。「聖別せよ」ですから聖なる日として他の日と区別しなさいということです。聖書では「六日の間働いて何であれあなたの仕事をし」なさいというのです。しかし、七日目は「あなたの神、主の安息日である」とするのでし。
世俗の生き方をする6日間と聖なるものに目を向ける1日(安息日)を分けているのです。おじさんもこの区別は良く分かります。
よく知り合いの人からせっかくの日曜日教会に行ったらもったいないのではと言われます。しかし、7日間全て世俗の生活をすると何の区切りもありません。
一日聖なるものに目を向け世俗の生活と断絶するのはそれはそれで意義があると思います。今日の説教ではもうひとつの安息日に関する聖書箇所が取り上げられました。
それを見てファリサイ派の人が、安息日に仕事をするとは何事だと非難します。それに対してイエスは、あのダビデも空腹だった時、神殿に入り聖なる供え物を食べたではないかと反論します。そして「安息日はひとのために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言います。
逆に言えば、休日なしの無制限労働を禁止しているのです。たとえ奴隷であっても家畜であっても、寄留する人(外国人)であっても1週間に1日の休日を保障しているのです。
古代において、奴隷や家畜は休日もなく年から年中無休で働かされる可能性がありました。それを防止する意味もあったと思います。
特に国の規定であれば、それを無視することもできますが、主によって祝福され聖別つまり聖なるものとされたものを古代人が無視することは難しかったと思います。
現代でも働きすぎつまり過労が問題になっています。この規定は現代以上に各個人の健康を守るもとだとも言えます。
明日は雪とのことなので家で仕事をして過ごします。