今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日はおじさんが
教会学校説教当番でした。おじさんは第一
主日が担当なのですが、今日は臨時に説教担当となりました。
説教はテキストに従ってなされます。今年は創世記からずっと代表的なテーマを取り上げて説教がなされています。今日はイ
エスが十字架にかけられた話です。
先日まで「
パウロ」(
岩波新書)を読んでいて、そこでは当時の十字架刑について触れられていました。当時の処刑方法としては一番残酷なやりかたです。
ところで聖書の
福音書と呼ばれるものには4つあります。ある資料を基に書かれたと言われます。同じ資料であっても何を書くのかは
福音書著者の信仰によって違います。
十字架上のイ
エスについてもマルコ
福音書とマタイ
福音書は同じ描き方をします。今日の説教箇所はマルコ
福音書でした。マルコ
福音書に描かれた十字架上のイ
エスは死を目の前にして「エロイ エロイ レマ
サバクタニ」とつぶやきます。
これは「わが神わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。あの救い主イ
エスでさえ、死の直前神に対して恨み言をいう形になっています。
ただ、だからイ
エスも結局は弱い存在なのだということにはならないでしょう。イ
エスを超人としてどんな時にも弱音を吐かず泰然と死を受け入れたと書いた方が伝道的には良かったのかもしれません。
しかし、イ
エスは人であり神である存在です。人としての苦しみを受け、一度葬られて死よりよみがえったとするのが
キリスト教の信仰なのです。
もちろん、先述した言葉は
詩編22編の一節なのです。その後この
詩編は神への絶対的な信頼を歌い上げるのです。そのような意味でイ
エスも使ったのだという主張もあります。
おじさんはイ
エスの苦痛としてそのまま受け入れてよいと思います。
使徒信条でも「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」とありますから。
一番興味深いのはこの出来事を伝えた人々です。イ
エスキリストの十字架を見守ったのは実は弟子たちでなくイ
エスのお世話をしていた婦人たちでした。
日本でも婦人の地位は70年前まではとても低い物でした。20世紀の日本でさえ婦人の地位が低かったのですから、
古代イスラエルではさらに低かったでしょう。イ
エスの弟子たちがイ
エス逮捕の後皆逃げ出したのに、婦人たちは最後までイ
エスに従ったのです。
そしてイ
エスの死について証言するのです。もう一つ興味深いのはイ
エスの死を見て「本当にこの人は神の子であった。」と信仰を告白した人です。
私たちもあなたはイ
エスを何と呼ぶかと言われた時どう答えるでしょう。偉い宗教家なのか道徳的に優れた人なのか、弱い人の味方なのかいろいろ答えがあるでしょう。
キリスト者なら「イ
エスは救い主、神の子です。」と答えるでしょう。この「本当にイ
エスは神の子であった。」と答えたのはローマの百人隊長でした。彼がイ
エスの処刑を指揮したと思われます。
もちろん彼は容赦なくイ
エスを処刑したでしょう。それが仕事あるいは任務なのですから。その彼がイ
エスの死を見て信仰を告白するのは驚くべきことです。
イ
エスに従った弟子たちは皆逃げ出し、当時弱い存在であった婦人たちと敵であるローマの百人隊長がイ
エスの死を見守り、イ
エスへの信仰を告白したところに大いなる逆説がありそうです。
聖書の言葉は逆説満ちています。今回のイ
エスの死の場面も同様逆説に満ちているようです。明日はのんびり過ごします。