新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

十字架上のイエスーCS説教から

 今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。今日はおじさんが教会学校説教当番でした。おじさんは第一主日が担当なのですが、今日は臨時に説教担当となりました。
 説教はテキストに従ってなされます。今年は創世記からずっと代表的なテーマを取り上げて説教がなされています。今日はイエスが十字架にかけられた話です。
 先日まで「パウロ」(岩波新書)を読んでいて、そこでは当時の十字架刑について触れられていました。当時の処刑方法としては一番残酷なやりかたです。
 ところで聖書の福音書と呼ばれるものには4つあります。ある資料を基に書かれたと言われます。同じ資料であっても何を書くのかは福音書著者の信仰によって違います。
 十字架上のイエスについてもマルコ福音書とマタイ福音書は同じ描き方をします。今日の説教箇所はマルコ福音書でした。マルコ福音書に描かれた十字架上のイエスは死を目の前にして「エロイ エロイ レマ サバクタニ」とつぶやきます。
 これは「わが神わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。あの救い主イエスでさえ、死の直前神に対して恨み言をいう形になっています。
 ただ、だからイエスも結局は弱い存在なのだということにはならないでしょう。イエスを超人としてどんな時にも弱音を吐かず泰然と死を受け入れたと書いた方が伝道的には良かったのかもしれません。
 しかし、イエスは人であり神である存在です。人としての苦しみを受け、一度葬られて死よりよみがえったとするのがキリスト教の信仰なのです。
 もちろん、先述した言葉は詩編22編の一節なのです。その後この詩編は神への絶対的な信頼を歌い上げるのです。そのような意味でイエスも使ったのだという主張もあります。
 おじさんはイエスの苦痛としてそのまま受け入れてよいと思います。使徒信条でも「ポンテオピラトのもとに苦しみを受け」とありますから。
 一番興味深いのはこの出来事を伝えた人々です。イエスキリストの十字架を見守ったのは実は弟子たちでなくイエスのお世話をしていた婦人たちでした。
 日本でも婦人の地位は70年前まではとても低い物でした。20世紀の日本でさえ婦人の地位が低かったのですから、古代イスラエルではさらに低かったでしょう。イエスの弟子たちがイエス逮捕の後皆逃げ出したのに、婦人たちは最後までイエスに従ったのです。
 そしてイエスの死について証言するのです。もう一つ興味深いのはイエスの死を見て「本当にこの人は神の子であった。」と信仰を告白した人です。
 私たちもあなたはイエスを何と呼ぶかと言われた時どう答えるでしょう。偉い宗教家なのか道徳的に優れた人なのか、弱い人の味方なのかいろいろ答えがあるでしょう。
 キリスト者なら「イエスは救い主、神の子です。」と答えるでしょう。この「本当にイエスは神の子であった。」と答えたのはローマの百人隊長でした。彼がイエスの処刑を指揮したと思われます。
 もちろん彼は容赦なくイエスを処刑したでしょう。それが仕事あるいは任務なのですから。その彼がイエスの死を見て信仰を告白するのは驚くべきことです。
 イエスに従った弟子たちは皆逃げ出し、当時弱い存在であった婦人たちと敵であるローマの百人隊長がイエスの死を見守り、イエスへの信仰を告白したところに大いなる逆説がありそうです。
 聖書の言葉は逆説満ちています。今回のイエスの死の場面も同様逆説に満ちているようです。明日はのんびり過ごします。