新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

誕生日でした。

 今日は誕生日でした。平日の方が多いのですが今年は珍しく土曜日だったので子供達が来てくれました。食事の後プレゼントとして靴を買ってくれました。今日で69才になります。
 早生まれなので、同級生は今年の4月以降70才つまり古希になります。今年古希の同窓会をしようと言っています。おじさんは昭和23年生まれです。同級生は22年生まれです。
 団塊の世代のど真ん中です。友人と話すと皆子供の数の多かった話しばかりです。おじさんの中学も12クラスで1クラス50人でしたから1学年600人です。
 おじさんの中学はなぜか校歌と別に応援歌がありました。この応援歌は市内中学対抗競技大会で歌うのです。この応援歌でも「わが友健児1500」とあります。今では考えられないほどの大規模校です。
 おじさんの町は企業城下町で複数の大企業がありました。当時は社宅が多くそこの子供と国立大学の官舎があってそこの子供も来ていました。
 それで中学の教師はおじさんの学校のことを「○○の学習院」と呼んでいました。○○にはおじさんの町の名前が入ります。
 結構有名人もでておじさんの県の県知事や自衛隊のトップなども出しています。ところでおじさんが生きた時代は敗戦から立ち直って高度成長へ向かう時代です。
 中学の時が安保闘争の時代でした。町でも安保反対のデモが見られました。高校2年の時東京オリンピックです。我が家もそのころカラーテレビを買ったと思います。
 ただ中学の時代は今ほど進学率が高くありませんでした。おじさんの町の学習院と呼ばれるほどの中学でも同学年の1割くらいが高校に行かず就職しました。
 そんな時代ですから大学進学率も推して知るべしです。国公立の大学と私立大学では授業料に大きな差がありました。またそのため今より国公立大学の入学が難しかった時代です。
 おじさんの兄弟4人のうち3人が大学進学をしましたが、おじさん以外は私立大学で、親も大変だったろうと思います。
 おじさんは公立大学だったので授業料も安かったです。おまけに当時は塾もなく家庭教師の口も多かったのでアルバイトはほとんど家庭教師で稼ぎました。
 多い時には1週3軒も掛け持ちしたことがあります。今では絶対に無理ですが、高校2年生まで英語と数学を教えたことがあります。この時の給料がアルバイトでは最高でした。
 その後大学を卒業してからはいつも書いている通り県立高校の教師を38年して定年退職しました。人生では定年退職後の方が波乱に富んでいます。
 半年の再任用の後中国の大学で3年、帰国後半年浪人して特殊法人立の専門学校で2年、ツマクマの介護で1年半仕事を休んで、ツマクマの死後半年県庁所在の専門学校で日本語を教えました。
 今は地元の専門学校でやはり日本語を教えて1年経過しました。2月になっても首だと言われないので来年もやれそうです。もし来年までやったら70才まで働くことになります。
 今のところ72才くらいまで頑張ろうと思っています。もちろん相手が雇ってくれたらの話ですが。明日は日曜日なので教会です。