新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「パウロ」(岩波新書)を読んで。

 今日は日曜日で教会でした。今日は盛りだくさんです。教会学校の説教があって、礼拝後長老会(役員会)です。長老会では来年度予算について話し合いましたが、どうも今年も赤字決算のようです。
 そもそも現住陪餐会員が減少した上に、礼拝出席者が高齢や病気などで減少していることが原因です。それに以前と比べて新しく来る方も減りました。これはどこの教会でも同様です。そもそもおじさんの町の人口も減少しているのです。
 さて今日は先日読み終えた「パウロー十字架の使徒」(岩波新書)について書きます。作者は青野太潮と言う人です。西南学院大学の神学部教授だった方です。
 おじさんもこの方の名前は知っていました。キリスト教社会派です。この方の十字架理解がオーソドックスなプロテスタントの理解と異なっているのです。
 パウロはキリストの直接の弟子ではありません。直接の弟子とはペテロなどの12使徒と呼ばれる人たちです。逆にパウロキリスト教徒を迫害する側であったと言われます。
 その彼がイエスに出会って回心し、キリスト教徒になったのです。そして世界伝道をし世界中(当時の世界)へとキリスト教を広めました。
 また多くの書簡も書いています。キリスト教を体系化し世界宗教へと転換させたのがパウロであったと言われます。それまではユダヤ教の影響を強く受けて、まるでユダヤ教の一宗派のような状態だったのです。
 パウロユダヤ人以外の人々(異邦人)への伝道を進めたのです。パウロの伝道は使徒言行録に詳しくでています。(以前は使徒行伝と呼ばれました。)
 またパウロは異端とも戦います。最後はローマで殉教したとも言われます。パウロの業績に関する記述については著者とおじさんは同じ立場に立ちます。
 しかし、著者の十字架理解は独特なものがあります。従来の十字架理解はイエスが十字架について死ぬことで人間の罪が贖われた(あがなわれた)とするものです。
 あがなうとは、代わりにお金を払って借金をなくすというような意味です。ところ著者はそうではなく、十字架の意味は弱者と寄り添うためであるとするのです。
 つまりキリストは今でも弱者を救済するために十字架にかかったままの状態であるというのです。この立場に立つとキリストを信じるものはキリストの十字架を見て弱者救済に向かわねばならないとするのです。
 この考えの影響でバプテスト教会の牧師には社会運動をする人が多いです。この立場に立つと個人の魂の救済より弱者救済の方がキリストの意思にかなうということになるのです。
 おじさんは従来の十字架観に立ちます。社会運動家としてのイエスではなく、罪を許す、人間の罪の救済を象徴するのが十字架だと理解しています。
 社会派が大勢を占める教会はどんどん衰退しています。教会に来る人は社会運動がしたいから来るのではありません。心の平安や魂の救済を願ってくるのです。
 日本のキリスト教の衰退の一つの原因に戦後社会派が教会内で勢力を伸ばしたことがあると思います。今日の話はちょっと難しかったかもしれませんね。
 良かったら一度この本を読んでください。明日は授業の予習をします。