「パウロ」(岩波新書)を読んで。
今日は日曜日で教会でした。今日は盛りだくさんです。教会学校の説教があって、礼拝後長老会(役員会)です。長老会では来年度予算について話し合いましたが、どうも今年も赤字決算のようです。
そもそも現住陪餐会員が減少した上に、礼拝出席者が高齢や病気などで減少していることが原因です。それに以前と比べて新しく来る方も減りました。これはどこの教会でも同様です。そもそもおじさんの町の人口も減少しているのです。
しかし、著者の十字架理解は独特なものがあります。従来の十字架理解はイエスが十字架について死ぬことで人間の罪が贖われた(あがなわれた)とするものです。
あがなうとは、代わりにお金を払って借金をなくすというような意味です。ところ著者はそうではなく、十字架の意味は弱者と寄り添うためであるとするのです。
つまりキリストは今でも弱者を救済するために十字架にかかったままの状態であるというのです。この立場に立つとキリストを信じるものはキリストの十字架を見て弱者救済に向かわねばならないとするのです。
この考えの影響でバプテスト教会の牧師には社会運動をする人が多いです。この立場に立つと個人の魂の救済より弱者救済の方がキリストの意思にかなうということになるのです。
社会派が大勢を占める教会はどんどん衰退しています。教会に来る人は社会運動がしたいから来るのではありません。心の平安や魂の救済を願ってくるのです。
日本のキリスト教の衰退の一つの原因に戦後社会派が教会内で勢力を伸ばしたことがあると思います。今日の話はちょっと難しかったかもしれませんね。
良かったら一度この本を読んでください。明日は授業の予習をします。