新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

4年前の2月22日の思い出ーツマクマへのガン告知

 昨日はポスティングの準備でブログを書けませんでした。昨日は織り込み広告が7枚もあったので大変でした。520×7ですから全部で3500枚を軽く超えました。
 今日はいつもより30分くらい時間をかけて配布しました。午前中の早い時間は雨だったのですが、その後雨が上がって助かりました。
 ところで4年前のことを思い出します。人生が全く変わった一日です。5年前の秋口くらいからツマクマが咳が頻繁に出ると言い始めました。
 近くの医者に見せると気管支炎でしょうと言いました。もしその時大きな病院で診てもらっていたらその後の運命も変わっていたと思います。咳以外に症状がなくそんなに重い病気とも思いませんでした。
 年が明けて2月になってもセキが出るので、知り合いのお医者さんの奥さんから、大きな病院で診てもらった方がいいよと言われました。
 それで近くの大きな病院へ行くとすぐ明日医科大病院へ行きなさいと言われました。そして検査の結果を聞いたのが2月22日だったのです。
 若い女医さんでしたが、冷静な口調で肺がんのステージ4です。と告げました。手術はできません、維持療法だけですとも言いました。
 肺がんで手術ができないなら残りの余命は半年だとすぐ思いました。兄嫁も肺がんで発見が遅れたので入院して半年で亡くなったのです。
 ちょうど息子が帰省するタイミングだったので、息子と相談してセカンドオピニオンを求めることにしました。近くのがん治療拠点病院に行くことにしました。
 結局その病院で2年半近く治療の後亡くなることになります。現代はがんを告知するのが常識になっています。医者の方もなんの躊躇もなく淡淡と告げます。
 良かったのはがんの告知を受けた後もツマクマが落ち込まなかったことです。頭では事態の深刻さが分かっていたと思うのですが自覚症状もなくどこか他人事のようでした。
 その後4ケ月ほど入院し、自宅治療になりました。自宅治療の間は元気で旅行に2回も行きました。年が開けて、その時使っていた抗がん剤が効かなくなり、また分子標的薬使用のための検査もうまくいきませんでした。
 分子標的薬はある遺伝子を持たないと効かないのです。検査しましたがその遺伝子はありませんでした。別の抗がん剤が効いて再び自宅で過ごせるようになりました。
 その年の夏息子の結婚式にも出ることができました。しかし、結婚式から帰ってからの検査で抗がん剤が効かないことが分かりました。結局その年の11月から自宅で残りの人生を過ごすことになりました。
 医者はもって4月と言ったのですが、7月自宅で過ごすことができました。
 2年半近い闘病生活がそして終わりました。去年の7月に仏教の1周忌に相当する1周年記念会をやりました。次は5周年記念会をやります。時間はどんどん過ぎていきます。
 生きて居たら6月で70才(古希)迎えられたのですが。明日はのんびり過ごします。