二種の捧げ物ーレビ記から
今日は日曜日なので恒例の教会ネタです。読者のみなさんはレビ記と言われても全く見当がつかないと思います。実は旧約聖書の一つなのです。
クリスチャンの人でもほとんど読んだことがない部分です。およそドラマチックなところのない部分です。それでは何が書いてあるのでしょう。
何をささげるかと言えば、まず牛または羊です。ほかに山羊や山鳩を捧げ物として神に捧げることがありました。この区別はお金の問題だと思います。
当然のことですが牛は高価です。よほどのお金持ちでないと牛一頭を捧げ物として差し出すことはできません。牛の次が羊や山羊で一番安価なのが山鳩です。
庶民は山鳩を捧げ物として差し出したと思われます。ユダヤ教の捧げ物はそれを殺してその血を祭壇に塗り、体はバラバラにして焼き尽くしてしまうのです。
レビ記一章のタイトルは「焼き尽くす捧げ物」となっています。動物は脂肪があるのでそれが燃えるのです。それでは何のために捧げ物をするのかという点です。
これは日本人の捧げ物(供物)と大きく異なります。日本人の場合、神様へのお礼や先祖供養のためにお供えものをします。
なくなった方に食べてもらうという意味もあります。ところがユダヤ教の焼き尽くす捧げ物は違うのです。レビ記1章4節に捧げものを置くと「その人の罪を贖う(あがなう)儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。
この概念は日本にはないものです。日本人の場合罪の意識というものがほとんどありません。日本では性善説が大半を占めます。
基本的に生まれながら悪い人間はいないというものです。たまたま環境などが悪くて罪人になると考えるのです。ですから罪を贖うなどという考えは出にくいです。
贖うというのは、自分の罪を何か別のもので許してもらうという考えです。ユダヤ人は家畜をささげることで自分の罪を許してもらおうというのです。
しかし、牛にしても羊にしても山鳩にしても、命の次に大切な家畜です。自分にとって貴重なものを神に捧げて自分の罪を許してもらおうというのです。
もちろんここでいう罪は犯罪だけでなく道徳的かつ宗教的な罪です。ご存じのように英語では罪は3つの単語であらわされます。言葉があるということは、人々の意識で罪には3種類あると考えられていたのです。
明日は学校も春休みなのでのんびり過ごします。