新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

試練について聖書はどう語るのか

 今日は父の日で子供からプレゼントがありました。おじさんの大好きな日本酒です。ところで、日曜日なので恒例の教会ネタです。今日はおじさんがやった教会学校の説教からです。おじさんの教会ではキリスト教系の雑誌の年間計画に従って説教をしています。
 今は「主の祈り」を元にやっています。「主の祈り」はイエスキリスト自身が祈るときにはこのように祈りなさいを教えたものです。世界中の教会で唱えられています。
 もちろんおじさんがかっていた中国の教会でもそうでした。今日の内容は主の祈りの6番目の「我らを試みにあわせず悪より救いだしたまえ」という箇所です。
 「試み」とは「試練」と置き換えることもできるでしょう。聖書で試練について述べているのがコリント信徒への手紙10章13節です。
 興味のある方はぜひ読むのをお勧めします。とくに試練に今会われている方はそうです。人は誰でも試練になど会いたくないと思います。試練に会わないように注意深く生きて居る人も多いでしょう。
 しかし、自分でどんなに注意しても外から試練がやってきます。例えば自然災害がそうです。また自分の子供や孫に試練が襲い掛かることもあります。
 そもそも自分でなんとかなるなら試練ではありません。どんなに自分が頑張ってもどうにもならないものが本当の試練です。さて聖書はまず試練について「あなたが耐えられないような試練に遭わせ」ることはないと言います。押しつぶされそうな試練を感じても、決して耐えられないことはないというのです。
 さらに「それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と続きます。福音というのはうれしい便りとか訪れという意味です。
 自分で試練に頑張れば未来が開けるではなくて、神様の側から救いの道が備えられているというのです。ですから試練に押しつぶされて絶望することはないというのです。
 私もずいぶん若いころこの箇所を知りました。若いころはそんな厳しい試練に遭うこともありませんでした。しかし、30代の頃自分ではどうにもならないほどの試練に遭いました。
 自分個人の問題ではなく、仕事の上の問題です。人の一生がかかっているような問題でした。人生で直面した最大の試練の一つでした。次の試練はツマクマがガンになった時くらいですから、どれほど大きな試練だったか分かってもらえると思います。
 聖書に書いてある通り、こちらが想像もしなかった方法で逃れる道が示されました。神様は逃れる道をすでに備えておじさんを試練に遭わせたのだと後に思いました。
 問題が解決したのが偶然であるのか神の摂理であるのか、どう考えるかが信仰との分かれ道です。一度なら偶然ということもあるでしょう。しかし、前述したツマクマの介護でも再び逃れる道を示されました。
 こちらは偶然のレベルを遥かに超えたものであったのでツマクマとかかわる人は皆神の摂理を感じました。ツマクマは死から逃れることはできませんでした。
 しかし、死以外の点で最高の治療および介護スタッフに恵まれたのです。50年間の信仰生活で2度にわたり奇跡に近い経験をしました。
 奇跡と言っても山が動くようなものではありません。主なる神は人間を自由自在に操ってご自分の意志を通されるのです。古代イスラエルの人も自分の力でなく不思議な神の働きでバビロン捕囚から解放されます。
 ユダヤ人をバビロン捕囚から解放したのはあるユダヤ人以外の王様の働きであったわけです。もし神が人々の祈りを無視し答えることがなければ2000年に及ぶキリスト教の歴史はなかったでしょう。
 聖書には祈りは必ず聞き届けられるとあるのです。ただ気をつけなければならないのは自分が願う通りにはならないことです。神のなされることを人間が推し量ることはできないのです。
 しかし、よく注意してみれば祈りは必ずかなえられているのです。明日は中学校の仕事です。金曜日が期末考査なので明日で今週の中学での仕事は終わりです。