新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

神の召命ー二つのパターン

 今日は日曜日なので教会でした。今日はイザヤ書からの説教です。イザヤ書はキリストの誕生の預言をしたことで良く知られています。
 今日はそのイザヤ書を書いた預言者イザヤの話です。さらに言えば預言者イザヤが神によって呼び出される話です。聖書箇所でいえばイザヤ書6章1節以下です。主は「誰を遣わすべきか。誰がわれわれに代わっていくだろうか。」と言います。
 すると敢然とイザヤは「私がここにおります。わたしを遣わしてください。」と言うのです。神の呼びかけに敢然と答えるのです。同じように神の呼びかけに答えたたのがサムエルです。サムエル記上3章10節でサムエルは主の呼びかけに対して「どうぞお話ください。僕は聞いています。」と答えます。
 神の呼びかけに素直にサムエルもイザヤも答えているのです。一方呼びかけられても逃げる人もいます。サウル王です。彼が王に選ばれた時人々が探したのに見つからないのです。すると主は「見よ。彼は荷物の間に隠れている。」と言われるのです。
 それを聞いて人々は走っていって彼を見つけるのです。たとえ主から呼び出されても隠れている人もいるのです。さらにヨナに至っては神の呼びかけから逃れようとします。ヨナ記1章ではヨナは神から「さあ大いなる都二ネべへ行ってこれに呼びかけよ。」と命じられます。
 ところが「ヨナは主から逃れようとして出発」してしまうのです。しかし、大嵐にあってしまいます。船の人々は彼をいけにえとして海に放り込みます。
 偶然大魚に飲まれヨナは助かるのです。サウルのヨナも神様からの呼びかけに恐れをなして隠れたり、逃げ出したりするのです。
 しかし、神はそれを許しません。結局二人とも与えられた仕事をすることになります。ミッションスクールのミッションとは使命という意味です。
 宣教師たちが自分の使命を自覚して地の果てまでキリストのことを伝えて行ったのです。職業も神から与えられた使命だという考え方がプロテスタントにはあると言われます。
 そうであれば自分の仕事に全力を尽くすことが神の御心にかなうことになります。働くことに意味を見出すことができるのです。
 そのためプロテスタントの国では産業が活発になり豊かになったという説もあります。これは確かマックスウエーバーの説であったと思います。
 読んではいないのですが「プロテスタンティズムの精神と資本主義」に書いてあると聞いたことがります。確かにカソリックの強い南欧は農業国で西欧は工業国や商業国が多いのそうかもしれません。
 おじさんも人には与えられた使命があって、それを果たすと神の国に戻っていくと思います。おじさんの使命は何だろと思ったこともあります。
 どうも行先ざきで問題があってそれを解決するために様々なところに遣わされているような気もします。今も一つ大きな問題を解決するために努力しています。
 これが最後の使命になってほしいと思っています。明日もいろいろやって過ごします。主