新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

三日目に死人のうちよりよみがえり

 昨日は地方都市のイベントへ行っていたのでブログをお休みしました。今日は日曜日なので教会でした。ブログも恒例の教会ネタです。
 今日は牧師の夏期休暇なので長老(役員)が代理で説教をしました。以前はおじさんともう一人の男性長老が代理説教をしていましたが、今日は別の女性長老が説教をしました。
 聖書の講解説教でなく、証(あかし)と言われる自分の信仰体験を語る説教でした。迫力のある説教で満足しました。ところで今日は牧師に代わって教会学校の説教がありました。
 ブログのタイトルに書いたのが今日の内容です。教会学校の説教はテキストに基づいて行われます。今年のテキストは使徒信条を連続して取り上げています。
 使徒信条は各種の信条の中で一番古い物です。キリスト教の信者たちが2世紀ごろに自分たちの信仰を言い表すために作ったもので、4世紀ころに現在の形になったと言われます。
 今日の信条の箇所はイエスキリストが十字架につけられて3日目に死人の中かよみがえったという復活についてです。
 復活の事実は当時の人たちにも信じがたかったことです。ヨハネ福音書によれば、まずマグダラのマリアの前に復活したイエスが現れます。
 次にケファつまりペテロの前に現れたとあります。次にユダヤ人たちの襲撃を怖れてカギをかけた家の中にいた弟子たちの前に現れます。
 その時イエスは手の傷と槍で刺された傷跡を見せたと聖書は書いています。トマスはその時そこにいなかったのですが、イエスに向かって自分は手の傷跡を見、脇腹の槍の跡に指を入れてみなければ信じられないと言います。
 そのため讃美歌でも疑り深いトマスといわれます。西洋絵画でもトマスは疑り深さの象徴として描かれます。イエスは見たから信じるのか、見ないで信じる人は幸いであると言います。
 キリスト教の信仰はまさに見ないで信じることにあります。私たちは再び活きたイエスキリストの姿を見ることはできません。しかし、イエスキリストが実在し、我々に罪の赦しと復活を約束したことを信じなければなりません。
 友情もそうですが、私たちは見ないで信じています。友情を数値化したり、文章で書き表したりしなくてもその存在を信じることができます。
 また過去に亡くなった親友との友情もすでに友人はいませんが、確かに存在したと信じることができます。見たり触ったり、数値で表されたりしなくても、見ないで信じるものもあるのです。
 復活の出来事は現代人には信じがたいことです。しかし、お盆に先祖が帰ってくるという欧米人には信じがたい出来事を日本人は信じています。
 目に見えなくても確かに存在するものはあります。信仰もその一つかもしれません。明日はいろいろ残っている仕事を片付けます。