新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「罪の赦し」について

 今日は日曜日なので教会でした。今日の説教も旧約聖書のダニエル記と言って日本人のみなさんにはなじみのない箇所だったので別のことを書きます。
 先週の教会学校の説教はおじさんの担当で、使徒信条の「罪のゆるし、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」からの説教でした。
 「体のよみがえり」はキリスト教の一番大事な教えである復活についてです。次の「永遠の命(とこしえのいのち)」は死んで神のもとに帰り、そこで世の終わりまで過ごすという信仰です。
 となると「罪のゆるし」だけが残ります。これは生きて居る現在の話なのです。キリスト教の特徴は原罪思想だと言われます。
 人間は生まれながらにして罪を負っており、それはアダムとエバが神を裏切ったところから始まると言われます。「原罪論」はキリスト教神学でも重要であると同時に難しい部分です。
 絶対神のいない日本では罪ということについては寛容です。「水に流す」という言葉があるくらい、簡単に罪を許してくれます。
 ところが、キリスト教では罪の問題はとても重要なのです。カソリックの場合、神父さんが信者さんの罪の告白(告解)を聞いて、イエスキリストに代わって赦しを与えます。
 戦国時代のキリシタンたちが残した告解の記録「懺悔録」という本が残されているくらいです。おじさんも学生の頃読んだことがあります。不倫をしたことの告白なども載っていて興味深かったです。
 プロテスタントの場合、イエスキリストに自ら告白することで許されると考えます。牧師さんのところに行って告白すると言った習慣はありません。
 罪を許してもらうためには、まず罪も自覚がなければなりません。これがないと、他人の罪は目につくのに、自分の罪は気づきません。そうなるととても嫌な人間になってしまいます。
 罪を自覚しても、その罪の重さの自覚がないと、どうせ皆やっているからいいやと安易に自分を許してしまいます。日本人の場合、「赤信号みんなで渡れば怖くない」精神です。罪についてもそれが言えるでしょう。
 先日日産自動車で無資格者が検査をしたことが問題になっていました。職場全体が認めて居れば違法だとしても罪に問われないのです。
 逆に違法だと告発すれば、そのことが罪に問われます。日本の場合罪を責めるのは絶対的な存在でなく仲間なのです。
 このような社会では罪について考えるのは難しいと思います。最近自分の罪や他者の罪について考えることが多くなりました。
 罪は犯そうと思わなくても他者に罪を犯すことが多いです。人から指摘されて自分が人に罪を犯したことに気づくのです。ということは、他者もおじさんに対して罪を犯していることを自覚していないのだろうなと思います。
 まだ人の罪に寛容になるところまで行っていません。歳を重ねて他者の罪に寛容になる時が来るのだろうかと思っています。
 明日は教会の仕事をする予定です。