中国古典の言葉と現代日本の政治
今日は一日教会の仕事をしました。長老会議事録の整理です。議事録の資料を整理して、本に貼り付けるのです。4月から結構たまっていました。後は教会総会議事録の整理です。
儒教が日本の生活道徳の基本になっていることは明らかです。まあそんなことはどうでもよいのですが、どんな言葉か書いてみましょう。
まず何度も書いたことのある論語の「民信なくんば立たず」です。これについては、民に信義の心がなければ、国は成り立たないという解釈と民が政治に対して信頼がなければ国が成り立たないという解釈の二つがあります。
反対派の野次や怒号をもろともせず堂々と演説してこそ一国の長たるものです。それが、暗殺ならまだしも、やじや怒号が嫌で逃げ回るなどみっともないです。
とても反対派が一千万人もいると思えません。数千人どころか数百人がいいところでしょう。自分を省みて正しいと思うなら「もりかけ問題」について演説で堂々と反論したらいいのです。
それを国会で審議するといいながら、何もせず冒頭解散するなどとても「正しい」行いと思えません。もちろん、安倍さんも含めて自民党に投票するのはいろいろな思いがあってでしょう。
中国古典の言葉には数千年の歴史の重みがあります。数年しても効果の出ないアベノミックスとは大違いです。安倍さんも一度中国古典をじっくり読んでほしいと思います。
明日は専門学校の授業です。