新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

彫刻の講演会に行ってきました。

 今日はお休みの日なので、あちこち出歩いていて今頃これを書いています。昨日は彫刻の専門家の講演会に行ってきました。
 知人に誘われたのです。一昨日ミヤジイに電話した時、昨日の講演会の話をしたらその専門家を知っていました。相当有名な人のようです。
 恥ずかしながらおじさんは知りませんでした。地元の高校の卒業生のようです。その方は海外で活躍されています。宗教建築に携わっています。
 ある教会の講壇の説教台を作ることを依頼されたようです。彫刻に入る前に木で作ったそうですが、とても良い出来栄えで今でも使っているそうです。
 何とその説教台を使ってローマ法王が説教をしたそうです。説教台の前面にはマタイの像が飾られていました。たぶんはなしを聞いた人のほとんどがマタイについて知らないと思います。
 説教台のある教会には扉があって、それにも彫刻が彫られているそうです。それはエジプトへ向かうヨセフたちの像なのです。イエスの養父であるヨセフがユダヤの王ヘロデの迫害を逃れてエジプトに逃れるのです。
 クリスマスの話は有名ですが、こちらは日本ではほとんど知られていません。ヨセフは迫害が迫っているとの天使のメッセージを聞いて夜のうちにエジプトに向かうのです。
 ヨセフにとっては大変な決断であったと思います。信仰がなければとてもできることではないのです。ヨセフはマリアから妊娠の話を聞いたときも不倫を疑うことなくその事実を受け入れます。
 婚約者が自分の知らないうちに妊娠しているのですから大変なショックであったと思います。しかし、ヨセフはマリアの言葉を信じてその事実を受け入れるのです。
 ヨセフとマリアの夫婦はイエスが生まれた後も子供をもうけます。つまりイエスには兄弟がいたのです。ところでヨセフが逃れた後ヘロデは救世主が生まれたという預言に恐れをなして、国中の幼児を殺すのです。
 西洋彫刻であれ、西洋絵画であれ、西洋文学であれ、聖書知識がなければ理解できません。昨日の講演についてもそうだと思いました。
 キリスト教そのものともいえる教会建設をキリスト教とは縁遠い日本人が行うとはすごいことだと思いました。要求される彫刻の背後に潜むキリスト教思想を理解できなければ本物は生まれません。
 姿形がどんなに優れたものであっても、本来要求される思想的背景が浮き出ていなければ、本物にはならないのです。
 今回の講演を通していろいろなことを考えさせられました。明日は中学の授業です。明日も忙しいのでブログはお休みです。