新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

ヨセフの苦悩ーイエス誕生の物語

 昨日は専門学校の忘年会でした。以前はいろいろ忘年会があったのですが、今はこれだけになりました。会費に比べて内容がよいので、学校の持ち出しもかなりあると思います。
 先生とくに外部からの講師を大事にしてくれている姿勢がよく表れていてうれしいです。以前勤務した専門学校の忘年会は職員が外部講師を無視して上司におせいじを言う感じでいやでした。
 さて今日は日曜日なので教会でした。第一週はおじさんの教会学校説教の担当です。今日は珍しく生徒さんが誰も来ず先生ばかりの礼拝になりました。
 今は教会ではアドベント待降節)と言います。主の降臨を待ち望む時という意味です。教会学校の説教もそれにあわせて行われます。
 余り一般の人に知られてないのですが、クリスマスの記事は4つの福音書のうち、マタイとルカ福音書にしかでていません。残りの二つの福音書にはないのです。
 またマタイ福音書の記事とルカ福音書の記事は異なっています。マタイ福音書はイエスに至る系図から始まり、ルカ福音書バプテスマのヨハネの誕生の記事から始まります。
 今日の聖書箇所はマタイ福音書の1章からです。18節の書き出しは「イエス・キリストの誕生の次第は次のようである。」とあります。
 イエスの母マリアはヨセフと婚約していました。当時婚約は結婚と同義に使われていました。ところが二人が一緒になる前にマリアは「聖霊によって身ごもっていることが明らかに」なるのです。
 この記述が所謂処女懐妊の根拠となるのです。夫ヨセフについて聖書は「正しい人であった」と述べます。この場合の「正しい人」は「律法に忠実な人」の意味です。
 ヨセフはユダヤ教徒として忠実に律法を順守する人だったのです。そんなヨセフにとって自分以外の人の子供を妊娠するというのは十戒の姦淫するなかれという掟に反します。
 もしこのことを公にすればマリアは石打ちの刑になるのです。ヨセフはそれを望みませんでした。それで「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心する」のです。
 それだけでもヨセフは良い人だと思います。マリアが別の男と関係を持ったと知ってマリアを糾弾しようとは思わなかったのです。
 しかし、一方でヨセフは苦悩したと思います。マリアのことを信じているのでひそかに縁を切ることで姦淫の罪は逃れられる、しかし父親も分からない子を産むマリアと生まれてくる子はどうなるのだろうと考えたでしょう。
 マリアを自業自得と責めることもできたでしょうがそうも思えなかったのです。「このようにかんがえていると、主の天使が夢に現れて」ヨセフに告げます。
 当時の社会において夢は重大な意味をもっていました。それは古代イスラエルだけでなく、古代の日本でも同様です。夢は不思議な出来事と考えられたのです。
 天使は「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げるのです。「恐れず」は以前の聖書では「恐れるな」となっていました。人間は想像できないようなことが起こった時ひどく怖れます。
 どうすればよいか分からなくなるのです。その時強く「恐れるな」と言われれば勇気がでてきます。天使は生まれる子供が「自分の民を罪から救う」存在になることを告げるのです。
 つまり救世主になると予言するのです。ヨセフは夢からさめるとマリアを妻として迎え入れます。また興味深いのは「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と言う記事です。
 ヨセフはマリアを神聖なる存在として扱ったのです。もちろんイエスが誕生した後ヨセフはマリアと関係を持ちます。別の聖書箇所ではイエスの兄弟たちのことが出てくるからです。
 若いころはヨセフについて何の関心もありませんでした。しかし、大人になってみるとヨセフの苦悩が良く分かります。若いヨセフは苦悩の中で決断したのだと思います。マリアの苦悩も深かったでしょうが、それに劣らずヨセフの苦悩も大きかったと思います。
 明日は本来中学の仕事ですが、土曜日バザーがあったりしたので明日は代休です。おじさんもだらだら過ごすつもりです。