キリスト教の立場から終活を考える
今日は日曜日なので教会でした。最近40代の男性が増えてきました。と言っても2人だけですが。40代というのはやはり物思う年代だと思います。
説教はテサロニケの信徒への手紙という教会関係者以外余りなじみのない箇所からだったので、別のことを書きます。今日は壮年会がありました。
壮年の方同士でテキストを読んで話し合うのです。今日は死についてでした。以前の日本では死について触れることはタブーでした。
死の話など縁起でもないというところです。ところが高齢者が全人口の25%近くなると死が身近になってきました。それで今では終活という言葉まで普通に使われるようになりました。
高齢者は子供達に死後のことを放さなければと雑誌などでも書かれるようになりました。しかし、皆が皆死について受け入れられるものではありません。
死に対する恐怖心を抱く人は大勢います。キリスト者でも余命宣告を受けた途端落ち込む人もいます。おじさんも子供の頃から死の恐怖を感じていました。
死んだらどうなるのかと言った恐怖です。自分という存在が無くなることへの恐怖と言ってもいいでしょう。しかし、両親、親友、ツマクマと亡くすなかで段々死に向かう覚悟ができてきました。
先に神の国へ帰った人たちがまっていてくれるとも考えます。数年前ツマクマを介護しているとき、死んだらどうなるのか尋ねられました。
神の国へ帰るだけだと答えることができました。この時ほど信仰をもっていて良かったと思ったことはありません。そういいつつも現実に余命を宣告されたら取り乱すかもしれません。今日の話合いでも、そのことがでました。それはそれでいいのではということになりました。
キリスト者と言えども普通の人間ですから、死に対して恐怖心をもっていてもいいのです。死ぬのはいいが、痛みで苦しむのはいやだという方もありました。
今は緩和ケアーがずいぶん進んで痛みを減らすやり方がいろいろあります。ツマクマも医療麻薬を使って傷みをコントロールしていました。
延命治療はしないように子供達にも言っています。できれば眠るように死にたいものです。明日は中学の仕事です。授業は漢詩に入ります。