新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

今日はイースターです。

 今日は日曜日なので教会でした。今日はイースタです。日本語では復活祭です。以前から何度も書いているようには一番重要な日なのです。
 これも以前から書いているように、クリスマスの記事は四福音書の中で二つしかないのに、イースターの記事はどの福音書にもでています。
 それほど重要な出来事なのです。逆に言えばキリストの復活がなければ、キリスト教は現在まで続いていないでしょう。なぜなら、キリストが逮捕され裁判にかけられて十字架で処刑された時、弟子たちは皆ばらばらになってしまいました。後に初代のローマ法王とされるペテロでさえ、キリストの弟子であることを否認するのです。
 イエスが復活したことを最初に知ったのは当然逃げてしまった弟子たちでなく、女性たちです。その中心がマグダラのマリアです。
 このマグダラのマリアは謎に満ちています。一番極端な説はイエスの妻であったというものです。また、彼女は姦淫の女として聖書に出てくる女性とも言われます。
 今日の説教はヨハネ福音書20章からです。イエスが処刑されその死体を議員のお墓に葬ったところから復活のドラマが始まるのです。
 墓の入り口には大きな石が置かれていました。マグダラのマリアや女性たちはイエスの遺骸に香油を塗るために墓に来たのです。
 彼女たちは入り口の大きな石をどのようにして動かせばよいか悩んでいました。ところが、入り口の石が取り除かれているのです。そしてイエスの遺骸がないのです。
 マリアはすぐペテロともう一人の弟子にそのことを伝えます。聖書によれば「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子が、ペテロより速く走って、墓に着いた。」とあります。
 もう一人の弟子とはヨハネ福音書を書いたヨハネだと言われます。自分の自慢を書いたという話を説教で聞いてつい笑ってしまいました。
 西洋絵画でもペテロは中年のおじさんに、ヨハネは青年に描かれています。その後イエスは弟子たちが集まっているところに現れます。
 復活の出来事は現代では信じがたい出来事ですが、当時でもなかなか信じられなかったようです。しかし、キリスト教の中心なのです。
 復活の出来事がなければ、キリストの教えはやかましいドラのようだとパウロは述べています。人は死ねばどうなるのか、、それに対する答え手が復活の出来事なのです。
 仏教の輪廻や生まれ変わりの思想も一つの死生観です。キリスト教ではいつの日かキリストとともに復活するというのが死生観です。
 おじさんもこのキリスト教の死生観を信じています。明日はのんびり過ごします。