新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

真理は些事に宿る―今日の説教から

 今日は日曜日なので教会でした。3月から新しい教会に行っています。こちらの牧師さんは以前の教会の牧師さんよりずいぶん若いです。
 講壇にスクリーンとか使って説教をします。ずいぶん時代が変わったものだと思います。そこには説教と関連する絵画なども映し出します。
 今日はマルコ福音書14章12節からです。ここはイエスが処刑される前に最後の晩餐をした場面です。今日の説教で、初めて知ったことがあります。
 この箇所にマルコ福音書の作者マルコが出てくるというのです。この箇所では、イエスが、二人の弟子を使いに出して、食事の場所を指示します。
 その時、「都に行きなさい。すると、水かめを運んでいる男に出会う。」とイエスは言います。この水かめを運んでいる男がマルコだというのです。
 マルコを当時の庶民の言語アラム語でいうと「マルコス」というのです。つまりマルコ福音書の作者マルコはあだ名だったのです。
 作者がさりげなく自分の作品の中に登場することは映画や絵画などでよくあります。そういえば、マタイ福音書のマタイはイエスに呼び出された取税人マタイです。
 またヨハネ福音書の作者ヨハネは復活したイエスが婦人たちの前に現れた場面で出てきます。夫人がイエス復活の話を二人の弟子にしたところ、急いで墓に駆けつけます。
 「二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペテロより早く走って、先に墓に着いた。」とあります。この若い弟子がヨハネだと言われています。
 今日の説教では最後の晩餐で食べられたと思われる食事がスクリーンに映し出されました。この時は過ぎ越しの祭りの時なので、種入れぬパンと苦菜その他の食べ物があったのです。
 また、最後の晩餐と言えばダビンチの絵が有名ですが、あれは全くのダビンチの創作です。なぜなら当時の食事の仕方は寝そべって食べるのが普通だったのです。
 今日の説教で一番印象的だったのは、イエスが裏切り者の予告をした時のことです。弟子たちは「私は違います。」とは言わなかったのです。
 「まさかわたしのことでは」と言うのです。それぞれの弟子には何か思いつくところがあったのだと牧師は指摘します。人間には皆人には言えない心の闇があるというのです。
 その心の闇のことを聖書では「罪」と呼んでいるというのです。何となくふに落ちるところがあります。今ある困難なことで悩んでいます。
 もちろん相手のあることです。相手のしていることが誠に理不尽に思えます。この相手にも深い心の闇があるのだと思い当たりました。
 なるほど生きるとはただ事ではないという讃美歌の言葉を思い出しました。なかなか心に残った説教でした。明日は中学の仕事です。