新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

人気の仕事は世に連れー同窓会の写真を見て

 昨日は専門学校の仕事の後野球観戦に行ったのでブログを書くことができませんでした。残念なことにひいきのチームは負けました。
 仕事が終わってから球場に行ったのですが、家に帰ると先日の同窓会の時の写真が送ってきていました。写真を見ながら、中学卒業からの55年間を考えました。
 昭和35年に中学に入って38年の卒業です。高校2年生の時に東京オリンピックがありました。大学を卒業して就職した年が大阪万博でした。
 ところで、写真をみながら、同級生の人生について考えました。クラストップ二人は2年間変わりませんでした。おじさんの中学では2年3年は持ち上がりではなかったのです。
 当時一番優秀な同級生は級長でした。今は学級委員とか言っているようです。彼は地元の進学校から某旧帝大の工学部の建築と気象大学校に合格しました。
 今は知りませんが当時気象大学校は給料がもらえて就職も間違いないので30倍以上の倍率でした。今でいえば防衛医科大学校とか自治医科大学みたいな感覚です。
 彼は某旧帝大の工学部をけって気象大学校に行きました。大学生の時に会ったら、気象大学校では科目によっては英語で講義が行われると聞いたことがありました。
 彼は当然気象台に就職し、退職しました。気象協会とかに天下りしたのかと思ったら、定年後は何もしていないそうです。クラス2番だった同級生も某旧帝大の工学部の土木に合格しま
 今は土木や建築関係は不人気ですが、高度成長直前の日本では土木・建築は大人気でした。逆に今大人気の医学部はそれほど人気はありませんでした。
 人のけがや病気と言ったものを扱う仕事はそれほど好まれなかったのです。何と言っても大学さえ卒業すれば仕事は山のようにあったのです。
 東京の企業を地方から受験したら、会社負担でホテル代と交通費が出たり、豪華な昼食が出た時代です。おじさんたちの前の世代は鉄鋼などがよくて、金属とか鉱山と言った学部が人気だったそうです。
 クラス2番の同級生は某鉄鋼メーカに入社しました。工場などの建設を担当する部署の部長になったと聞いていました。今はさぞ大きな子会社の重役かと思ったら違っていました。
 役職定年で退職し関連の中小企業で社長をしているそうです。建設会社です。相当苦労しているようで、某鉄鋼企業の部長をしていたころよりずいぶん老けていました。
 今は名古屋に住んでいて同窓会には朝新幹線で来たそうです。中学を卒業してそのまま働いた同級生もいます。自営業だったけれど体を悪くしていま何もしていないと言っていました。
 高校を卒業して都会で就職して亡くなった同級生もいました。皆それを相応に年を取っていました。クラスのメンバーで撮った写真を見るとそれが良く分かります。
 毎日働いているのはおじさんくらいでした。次の同窓会は80歳かなとも話ました。それにしても50人のクラスで20人近く集まったのはすごいと思います。そうえいば、きちんと収支報告書が入っていました。さすが大人だと思いました。ちなみに会費は6000円でした。
 明日は日曜日なので教会です。