新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖餐式の意味

 今日は日曜日なので教会でした。今日の説教は聖餐式についてでした。先週の最後の晩餐に続く箇所です。聖餐式はおじさんの行っている教会では月の最初の日曜日行われます。
 聖餐式はパンと葡萄酒(ぶどうの汁)を受けます。聖書では葡萄酒になっていますが、現代ではアルコール依存症などの問題があって、20年くらい前からブドウの汁にかわりました。
 ちなみに中国でもぶどうの汁でした。中国ではパンではなくウエハースのようなものでした。これだといくらでも割って増やすことができるからです。
 聖書ではパンはキリストの体、葡萄酒はキリストの血の象徴だとされます。また聖餐にあずかることは、キリストと一体となることを意味します。
 またこれによってキリストと新しい契約を結ぶことになります。旧約聖書によれば本来の契約は神との約束を守ることで、神も民を守るというものでした。
 しかし、イスラエルの民は神との約束を破りました。しかし、神はそれにもかかわらず新しい契約を結ぶのです。これはエレミヤ書にでてきます。
 最後の晩餐の場面ではイエスをこの箇所を元に弟子たちに話しているのです。もちろん弟子たちもイエスがこの箇所を元にして話していることは分かったと思います。
 本来なら神に何かを依頼する時犠牲の羊などをささげました。そもそも過ぎ越しの祭りでは災いから逃れるために犠牲の羊の血を戸口につけたのです。
 最後の晩餐での話では葡萄酒で象徴されるキリストの血は「多くの人のために流される私の血、契約の血」というのです。イエスは人々の救いのために自らの血を流されるというのです。
 それほどまでに人々を愛しておられるということです。そのような聖餐の意味を知らずパンを食し、葡萄酒を飲んでも何の意味もありません。
 今日本では全員聖餐といって会堂にいる人全員に聖餐を配る教会もあります。しかし、聖餐の意味が分からず加わっても何の意味もないと思うのです。
 中国の教会でも聖餐にあずかる人は起立して聖餐にあずかりました。日本キリスト教団の教会では、必ずどこの教会どの教派であってもかまわないが、洗礼を受けた人だけが聖餐にあずかってほしいと伝えます。
 おじさんもそれでよいと思います。聖餐の意味を理解してこそ聖餐にあずかることができるのです。そしてこの聖餐は2000年の長い歴史をもつ儀式なのです。
 毎回聖餐にあずかるたびに不思議な感覚にとらわれます。信仰を新たにされた気がします。明日は中学の仕事です。