新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

 今日は久しぶりに以前通っていた教会に行きました。大体月に1回以前通っていた教会に行っています。今日の説教はマタイ福音書9章14節以下からです。
 この箇所のサブタイトルは「断食についての問答」とあります。この話はマルコ福音書やルカ福音書にもあります。この質問をしたのは「ヨハネの弟子たち」と呼ばれる人です。
 ここでいうヨハネヨハネ福音書の著者ではなく、預言者ヨハネです。彼らは自分たちもファリサイ派の人も断食をするのに、なぜあなたの弟子たちは断食をしないのかと聞くのです。
 当時も現代も神や仏から救いを得るためには、苦行をする必要があると考えられたのです。苦行や修行をして、俗世の欲望を絶つことで救いが得られると考えたのです。
 だらけた世俗の生活をしていては救いは得られないと考えるのは誠にもって納得がいきます。厳しい修行のはてに救いがあるといえば、納得できます。
 しかし、イエスはそれを否定するのです。イエスの答えは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」です。
 この場合の花婿はイエスを指します。イエスがともにいるので、断食などしなくても救いを得られるというのです。当時としては革命的な発言であったと思います。
 事実イエスはタイトルの有名な発言をします。新しいぶどう酒つまりイエスの教えは新しい考えを持たねば受け入れられないというのです。
 新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、袋は裂けてしまうというのです。これは当時の生活から来た教えだったのでしょう。あたらしいぶどう酒は発酵がまだ活発で、膨張するので古い革袋に入れると裂けてしまうのでしょう。
 実はその前に「織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎをあてたりはしない。」とあります。これも当時の生活の常識だったのでしょう。新しい布は洗うと縮むので、古い布を引っ張って破ってしまうのです。
 イエスの言葉は、なかなか深みのある言葉です。断食をするのはやはり自力救済の考えでしょう。キリスト教の考えは他力救済です。
 自分の努力の結果救われるのではなく、キリストの十字架の贖いによって救われるとするものです。では何もしなくて良いのかといえば、いつもキリストとつながっていなければなりません。
 その証として教会生活があるのだと思います。浄土真宗も他力本願といいます。キリスト教とくにプロテスタントの教えは浄土真宗の教えに近い気がします。
 明日は家の仕事をします。