新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

戦争の思い出ー戦争の名残

 今日は午後から忙しいので今これを書いています。相場は50円近い下げです。まあ経済合理性より国際政治が相場を左右する今日この頃ですから、相場の予想は全く不可能です。
 終戦記念日厳密には敗戦記念日から少したちましたが、おじさんと戦争について書きます。もちろん、おじさん自身は戦争体験がありません。
 戦争が終わって生まれたからです。それでも戦後間もなくだったので、戦争の名残があちこちにありました。おじさんの町にも占領軍がいました。
 今市役所が立っているあたりに米軍の大きなキャンプがありました。先の大戦の時は生まれていませんが、今話題の朝鮮戦争については記憶があります。
 市内の駅に行くと朝鮮に送る戦車が列車に積まれているのを見ました。空には双発の輸送機が飛んでいました。朝鮮戦争で亡くなった戦死者を記念する塔もあります。
 身近なところでは叔父が戦争で亡くなりました。本家には遺族の家というプレートが貼ってありました。ある時先祖調べをしていたら、この叔父さんの死亡経過が分かりました。
 海軍の某総監部からの志望通告が掲載されていたのです。南方のある海域で死亡したと思われると書かれていました。サイパン島で玉砕したと聞いていたので意外な気がしました。
 海軍だったと聞いていないので、南方に行く途中の海域で輸送船が撃沈されて亡くなったのでは思っています。父は運よく戦死せずに帰ってきました。
 工兵だったようで、その時使っていた飯盒が後に家に残っていました。兵長で復員したので、たいして偉くなかったようです。父の弟は准尉まで昇進したようです。
 おじさんの結婚式で担任(学徒出陣で少尉で復員)が叔父に戦争の時どこまで行きましたかと聞きました。叔父が准尉でしたというとほうと感心していました。
 学徒出身の少尉とたたき上げの准尉では軍隊における評価が格段に違うのだと思いました。飯盒のことを書きましたが、庭に降りる時の踏み台は弾薬箱でした。
 おじさんが中学の頃まで防空壕がありました。そういえば、中国で教えて居た頃、その町にはまだ防空壕が残っていました。もちろん防空壕としてではなく倉庫として使っていました。
 その町は日本軍の空襲を受けたので、防空の日があって、その日にはサイレンがなりました。何とか70歳まで戦争にならずに済みました。
 息子が34歳なので、まだ戦争があれば徴兵される可能性があります。取りあえず今の平和が続いてもらいたいと思っています。明日は忙しいのでブログはお休みです。