イエスの12弟子ー出自はいろいろです。
今日は久しぶりに以前行っていた教会に行きました。今日びっくりしたのは、去年洗礼を受けて40代の男性が奏楽の奉仕をしていたことです。
奏楽の奉仕とは簡単に言え礼拝でオルガンを弾くことです。讃美歌の曲はそれほそ難しいものではありませんが、礼拝と言う独特な雰囲気の中で弾くのでそれなりに大変です。
ところで今日の説教は十二弟子を選ぶところです。マタイ福音書9章35節以下からです。10章1節には十二弟子を選ぶとサブタイトルがついています。
イエスは弟子たちに「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす」権能を与えたようです。本来はイエス自身がするべきなのですが、「収穫は多いが働き手」が少ないので弟子たちにも自分と同じ権能を与えたのです。
ところで十二弟子に選ばれた人たちはどんな人たちだったのでしょう。弟子の筆頭とも呼ばれ、のちに初代ローマ教皇とでもいうべき「ペテロと呼ばれたシモン」は漁師です。
おもしろいのはイエスの弟子の中に過激派の出身者がいたことです。当時反ローマ派は「熱心党」と呼ばれていました。その熱心党出身のシモンという人がいます。また、復活のイエスに出会った時、自分はイエスの脇腹の傷に触れなければ信じないといったトマスもいます。
弟子たちは汚れた霊を追い出し、病気や患いをいやす権能を与えられましたが、それを使うにあたって、イエスをある注意をします。
それは「ただでうけたのだから、ただで与えなさい。」です。この記事はおじさんも今回初めて知りました。確かにそのころの時代だけでなく、現代でもお祓いなどを有料でする人が大勢います。
人の病を癒す行為をお金に換えれば人は堕落するからでしょう。本来は心の癒しつまり罪の赦しがキリスト教の本質なのに、目に見えるもののに注意がいってしまうからです。
現世利益を求めて信仰するなら必ず裏切られます。病や悩みの解消は宗教にはつきものです。ただ宗教の目的は心の救済なのです。
聖書の言葉は意外に現代にも通じるところがあります。明日は中学の仕事です。