新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

イエスの埋葬ーアリマタヤのヨセフを中心に

 今日は日曜日なので教会です。今日の説教はイエスの埋葬です。おじさんも教会に行きだして50年になります。この話は以前から何回も読んだことがあります。
 しかし、今回読みなおしてみるとまた別の感慨がわいてきます。この話の中心はアリマタヤのヨセフです。ヨセフという名前はありふれたものなので、地名などをつけて普通呼ぶのです。
 たとえば山川村の太郎さんとか西港の次郎さんとかです。彼のことは全ての福音書にでてきます。彼が、ピラトに頼んでイエスの遺骸を引き取り自分の墓に葬ったことは全ての福音書に共通しています。
 当時個人で岩をくりぬいた墓をもっているのは相当裕福な人です。今日の聖書箇所はマルコ福音書の15章42節からです。マルコ福音書では彼のことを「身分の高い議員」としています。マタイ福音書は単に「アリタヤ出身の金持ち」とします。ルカ福音書では「ヨセフと言う議員」とした後「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」とあります。
 さらにヨハネ福音書では「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。どうも彼は金持ちで議員だったようです。そして、イエスの弟子とありますから、イエスの教えを信じていたと思います。イエスの裁判では死刑にすることに反対しましたが、自分がイエスの弟子だということは隠していたようです。
 以前読んだ本にユダヤでは全員賛成ならその意見を取らないとありました。ですから日本と違って全員一致でない方がよいようなので、処刑する案に反対してもイエスの弟子あると思われなかったでしょう。
 しかし、彼がイエスの遺体を引き取りたいと申し出た時点で彼がイエスの弟子であると分かったと思います。ですからマルコ福音書では「勇気を出してピラトのところに行き」とあります。ただ、彼の申し出はピラトにも祭司長にも都合が良かったようです。
 ピラトはもともとイエスの処刑には反対でした。またイエスを処刑して遺体をそのままにしておくとイエスの弟子たちがそれを取り戻しにくるかもしれません。そうなると遺体を見張っているローマの兵士との間で騒動になります。
 祭司長たちも安息日に遺体がそのままになっているのは律法の教えに反します。ですから彼の申し出は簡単に認められました。ただピラトの反応はマルコ福音書の記事を読むとおもしろところがあります。
 ピラトは「イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い」とあります。ピラトにとって神の子があっさり死ぬことが不思議だったのでしょう。
 ですから部下を呼んで「既に死んだかどうか」尋ねています。部下に確認させた後彼に遺体を下げ渡したのです。こうしてイエスの遺体は「岩を掘って作った墓の中に収め、墓の入り口に石をころがして」おいたのです。
 この時点では誰もイエスの復活など予想もしていませんでした。イエスの遺体が墓に葬られるのを見ていた関係者は「マグダラのマリアとヨセの母マリア」だけでした。
 マルコ福音書では「イエスの遺体を収めた場所を見つめていた」とあります。極めて文学的な表現です。さりげない文章ですが、とてもうまいと思います。
 そして、この二人がイエスの復活の事実を初めに知るのです。聖書では重要な場面で女性が登場します。本来ならイエスの弟子たちが埋葬に立ち合わなければいけないのに、弟子たちは皆散り散りなって逃げていたのです。
 聖書は信仰の書としても読めますが、人間の姿を描く文学作品としても永遠の価値を持つものだと思います。聖書に描写された登場人物の発言や行動また心理さらにはその描写はどの文学作品にも劣らないと思います。
 仏典やコーランとそこが異なっていると思います。明日は中学の仕事です。