新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

イエスキリストの復活の謎

 今日は日曜日なので教会に行きました。最近行きだした教会です。若い牧師さんで、スクリーンに映像を映し出したりします。時代の変化を感じます。
 ところで今日はマルコ福音書の最期の部分についてです。マルコ福音書16章1節からです。以前書いたイエスの埋葬の続きの部分です。
 日曜日の朝、3人の女性たちがイエスの遺体に香油を塗るために墓に行ったのです。「イエスに香油を塗るために香油」を買ったとあります。
 当時香油は極めて高ったのです。ただ彼女たちには大きな悩みがありました。イエスが葬られている墓の前に大きな石があって、入り口をふさいでいるのです。
 伝わるところでは、20人くらいの男性でないと動かせないほど重く大きかったと言われるています。そんな大きな石をどうやって動かして中に入ろうかと思っていたのです。
 ところが、「石は脇に転がしてあった」のです。不思議に思って中に入ると「白い長い衣を着た若者が右手に」座っているのが分かったのです。
 この若者は天使だと言われます。天使というと羽をもった女性のイメージですが、本来は神の兵士なのです。ですから、旧約聖書などでは天使は若者のイメージで描かれます。
 彼はあなたたちが知っているイエスは「ここにはおられない」と言うのです。事実遺体はありませんでした。この部分の残りの福音書の描き方には違いがあります。
 ただ遺骸が墓になかった点では共通です。問題はマルコ福音書と他の福音書の違いです。実は他の福音書は復活したイエスに婦人たちや弟子たちが会ったという記事があるのです。
 マルコ福音書では「婦人たちは墓を出て」逃げ去り、「震え上がり、正気をうしなってしまう」のです。そして、「誰にも言わなかった。恐ろしかった」からです。
 しかし、現在使われている共同訳聖書では「結び」とあってマグダラのマリアに現れたり、二人の弟子に現れた
という記事があります。
 もともとはこの記事はなかったと言われます。後の人がこれを書き足したと言われます。実は福音書で一番最初に書かれたのはマルコ福音書と言われます。なぜ一番古い福音書に大事な記事がないのでしょう。
 ただ「震え上がり、正気を失うほど」であったという表現が使われるのは神に出会った時に使われるのです。つまり、イエスが先生でなく神の子だと知ったからあのような表現が使われているのです。
 古代イスラエルでは神を見たものは死ぬと考えられていたのです。ですから、三人の女性は死の恐怖を感じて逃げ出したのです。
 イエスは何者かというのは新約聖書全体のテーマです。マルコ福音書ではその書き出しで「神の子イエスキリストの福音の初め」とあります。
 そして、最後はイエスキリストが神の子であるということを示して終わっているのです。いつも書いているように、何かい聖書を読んでも毎回新しい発見があるのです。
 明日は所用で忙しいのでブログはお休みの予定です。