新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

何度読んでも新しい発見があります。-聖書です。

 昨日は教会の後お出かけしたので、ブログを書くことができませんでした。それで昨日の説教について書いています。ところで昨日は幼児祝福式の日です。
 これも以前書いた召天者記念礼拝同様日本的な教会行事です。もちろんお分かりのように七五三祝いに対抗しているのです。仏教系の幼稚園などでもクリスマスをやるのでお互い様です。
 説教は幼児祝福式とは別の内容です。聖書箇所はルカ福音書12章6節以下です。この記事はルカ福音書にしかありません。
 サブタイトルは「実のならないいちじくの木のたとえ」とあります。「あるひとがふどう園にいじじくの木をうえ」ておいたとあります。
 今行っている教会の牧師さんは30代半ばくらいですが、お話が上手です。まずブドウ園の写真を見せます。そして、、ブドウ栽培には棚が必要だと言います。
 おじさんの家にもブドウがありますが、やはり棚状のものがあります。ブドウ園にいちじくの木の取り合わせについて、牧師さんは実は当時ぶどうの木の支えとしていちじくの木が使われていたというのです。
 持ち主はぶどうの他いちじくも収穫できたのです。砂糖のなかった当時の中東地域ではぶどうやいちじくは大切な甘味料だったようです。
 ところが、この木には3年たっても実がならないのです。聖書で3年とか3と言う数字は長年という意味で使われます。つまりこの木はいつまでたっても実がならないと言っているのです。
 それで持ち主はこの木を「切り倒せ」というのです。ところが園丁はこの木を切らないでほしいというのです。それだけでなく「木の周りを掘ってこやしをやってみます。」というのです。
 何気ない言葉ですが、牧師さんはこの地域は肥沃三日月地帯と言われるほど地味が肥えているというのです。つまり肥料がなくても作物は十分育つのです。
 それでも育たないのですから、肥料をやっても無駄だということは当時の聴衆には良く分かった思います。この園丁の言うことは全くバカげたことだったのです。
 ではこの例え話の意味はなんでしょう。実のならないいちじくの木とは我々人間のことです。持ち主は神様なのです。こんなダメな人間など滅ぼしてしまえと言っているのです。
 そして園丁はイエスなのです。つまり役にも立たない人間を神様にとりなしているのです。イエスは最後に自らを十字架につけることで人々の罪を取り去るのです。
 このお話の最後に園丁は、「もしだめなら、木を切り倒してください。」と言います。実は切り倒されたのは木ではなく、木をかばった園丁だったのです。
 神へのとりなしをするイエスの姿が、持ち主と園丁そして実のならないいちじくの木のたとえでよく表されています。ほとんど説教に取り上げられることのない話ですが、今回説教を聞いてとても考えさせられました。
 明日は専門学校の授業があります。