新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

敬われない預言者ーナザレのイエス

 今日は中学の仕事でした。午前中4時間詰まっていました。朝8時45分から12時15分まで連続授業です。結構大変でした。水曜日も同様です。
 ところで今日のブログは教会ネタです。先日も書いたように、昨日以前行っていた教会の礼拝に出席しました。昨日の聖書箇所はマタイ福音書13章53節以下です。
 タイトルにある通りイエスが故郷のナザレに帰った時の話です。イエスは活動を開始する以前はこの町に住んでいいました。
 イエスは人であり同時に神でもあるというのがキリスト教の理解です。もちろん、イエスは人であって神ではないという主張をするキリスト教の人もいますが、オーソドックスな教義は人となりし神というものです。
 今日の聖書箇所のサブタイトルは「ナザレで受け入れらない」です。ナザレでも教えを行ったのですが、ナザレの人々の反応は「この人は大工の息子ではないか」というものです。
 イエスは30代になるまでナザレで父親の仕事である大工をしていたようです。ブッダは王族の息子でマホメットは商人でした。イエスは大工の息子なのです。
 聖書はそのことを隠したりしません。それどころかイエスの兄弟についても書いています。続けて人々はイエスの家族について、「母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」と言うのです。
 それだけでなく「姉妹たちはは皆、われわれと一緒にすんでいるではないか。」ともいいます。ナザレの人にとってはイエスは以前から知っている住人の一人にすぎなかったのです。
 余りに身近な存在であったがゆえに、イエスがどんなに教えを説いても受け入れることはできませんでした。ナザレの人にとってイエスは神の子ではなく、ほら吹きにしか見えなかったのでしょう。
 イエスは自分の教えを受け入れない人々について「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言います。兄弟姉妹にとってもイエスは風変わりな人物と思われたのでしょう。
 ただ聖書によれば、最後までイエスのことを心配していたのは母マリアです。イエスが処刑された時もイエスにを見守っています。
 イエスも自分の教えを信じようとしない故郷の人に対して冷淡な態度で接します。この箇所の終わりには「人々が不信仰だったので、そこでは余り奇跡をなさらなかった。」とあります。
 奇跡は信仰の目を通してでなければ見えてきません。人々を驚かすような不思議な奇跡もありますが、当人と周りの人しか分からない奇跡もあります。
 おじさんが体験した奇跡はそんなものです。おじさんが体験した奇跡は、不思議な人と人との出会いでした。神の大きな計画というものを感じました。
 世の中にこんなことがあるのかと言うものです。神のなさるわざは、コヘレトの手紙の以前の訳の通り「すべての時は御心にかなって美しい」ものなのです。
 信仰をもって50年過ぎましたが、キリスト教信仰は信じるに値するものだと確信することができました。明日は専門学校の試験です。試験監督と採点をします。