新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

認知的不協和とその解消(簡単に言えば愚痴です。)

 今日は最近珍しい晴れになりました。と言ってもおじさんの街は抜けるような青空にはなりません。太陽も燦燦と(さんさんと)照りつけたりしません。その代わり気温が上昇するだけです。外を見ただけではどのくらい暑いのかわかりません。おまけに、床が石なので建物の中の方が外より涼しいのです。ですから、室内の感覚で外に出ると随分違います。逆に外から建物(マンション)の中に入るとひんやりします。
 今日は久しぶりに授業でした。と言っても明日で今週の授業は終わりです。さて、今日は認知的不協和という心理学で使われる用語をテーマにしました。最近この認知的不協和の関する出来事があってへこんでします。本当はそれをストレートに書きたいのですが、やはり差しさわりがあるので、このような訳のわからない用語を使っているのです。
 認知的不協和とは、簡単に言えば「自分の価値観や考え方と違ったものを、自分が受け入れなければならなくなった状態」です。おじさんは理屈好きなので、時々このような認知的不協和の状態になります。つまり理屈にあったことであれば、自分の価値観や考えと違っても認知的不協和の状態にはならないのです。ところが、自分でどう考えても相手の言っていることが理屈に合わないと思っても、それを変えることが出来ず受け入れなければならないことが、人間生きているとしばしばあるのです。
 今はそのようなことが立て続けに起こっているのです。おじさんは学者の卵のその前の細胞レベルですが、一応学問を志しました。(おじさんの専門についてはいつか書きます。)そのため大学院の修士まで出たのです。ですから、理論的に整合性のないこと(簡単に言えば筋が通らないこと)は大嫌いなのです。学問の入り口でも覗いたものは、研究が実に精緻に組み立てられているのを知るでしょう。また、そのような考え方を徹底的に大学院の時に叩き込まれました。
 しかし、現実世界はそのような理屈や筋ではなくて、行きがかりとかこの世の義理のようなものが優先します。今回の認知的不協和はそのような状態なのです。特にアジアでは理屈より感情が優先されます。ある人の感情を害さないように、理屈を曲げることが多いのです。それは仕方がないと頭では分かっているのですが、心が素直に受け入れようとしないのです。
 相手と論争をし、それに勝って決着が着けばよいのですが、そんなことをすれば事態は益々こじれるだけだということは知っています。ですから、「仕方がないこれが世の中なのだ」と自分を納得させています。おじさんはそのような時黙って自分の世界に閉じこもるか、このように文章にして認知的不協和を解消します。お酒を飲んだり、騒いだりしても仕方がないと思っています。理屈好きなので、何とか自分を納得させる理屈(「世の中はこんなもんだから」も理屈の一つです。)を思いついて解消に努めています。
 それから年をとったので、いやなことを忘れるのが早くなりました。(こんな時記憶力の減退は有利です。)多分金曜日くらいには忘れていると思います。今日は簡単に言えばおじさんの愚痴なので、読者の方には申し訳なかったと思っています。明日はまじめにおじさんが学んだ専攻について書きます。