新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

地上から天上へ

 今日は珍しく1日中雨でした。おまけに午後2時過ぎからD区でスピーチコンテストの練習があり、大変な1日でした。さっきD区から帰ったところです。今日はスクールバスが途中でエンストするし、練習の時間調整も悪く、結局練習が始まったのは、4時からでした。選手の学生の仕上がりも今一つでした。
 さて、今日のブログは、あの工業高校から転勤した先の話です。高校教員の場合、勤務する学校によって、全く生活が違います。今は大都市圏は私立高校(中高一貫)にやられていますが、おじさんの頃はまだ県立高校全盛時代でした。(地方では今でも公立高校優先です。)工業高校には3年いました。3年目には、「あんたは、工業でも十分勤まるよ。」と他のベテラン教員から言われるほどになりました。しかし、文人であるおじさんは、教科指導ができる普通高校、それも都市部への転勤を願っていました。
 それと、もうひとつ読者の皆さんには信じがたいエピソードを書きます。実はそのことがあって、都市部に転勤できたのです。工業高校では、いつも生徒と対決していました。そんな時ある英語の教師が、「ここで、のんびり暮らしていたら頭が腐るから、勉強会をしよう。」と提案しました。何と洋書(英語の本)を読もうというのです。学級崩壊状態の学校で、放課後教師数名で英語の輪読会をしました。
 参加したのは、物理教師(素粒子論・・理論物理学専攻)とおじさん(国語教師)、それに社会科の先生と、提案者の英語の先生でした。まじめな本はつまらないから「チャタレー夫人の恋人」にしました。教頭はとても喜びまました。自分も若くて時間があったら参加したのにと言いました。実はその教頭がおじさんを都市部の普通高校に推薦してくれたのです。
 そこは、都市部の新設高校でした。今はできて30年以上経過しています。偶然最近ニュースでその高校の名前を見てびっくりしました。あることで若者の間で有名なのだそうです。兵庫県都市部の山の上の高校とだけ書いておきましょう。校区は高級住宅街を含むところで、99%の生徒が進学する学校です。
 どのくらいの高級住宅街かというと、保護者会があると、保護者によっては運転手付きのベンツで学校に来ていました。また、ある時なにげなく新聞の経済欄を見てみると、保護者が一部上場企業の副社長になっていました。昭和48年(1973年)の頃に帰国子女がごろごろいました。「何々君はこのまえ、ニュージーランドから帰ってきたばかりだから、日本語はまだ十分ではありません。」という話が学年会議ででるようなところです。
 おじさんは、事情があって2年間しか勤務しませんでした。1年で担任した生徒から東大現役合格者もでました。一番出世した教え子は今東京の某テレビ局の人事部長です。転勤してしみじみうれしかったのは、生徒が全員着席して授業を聞いてくれたことです。勉強のレベルも高く大変だったけれど、教師にとって生徒が授業を聞いてくれることほどうれしいことはありませんでした。
 そんな天上の世界のような高校だったのですが、故郷へ帰るために辞職しました。県立高校は県ごとに試験が異なるので、おじさんの故郷の県の採用試験を受け直して合格し、そちらに帰ったのです。5年前は教師が余っていたのですが、一転不足するようになり、他府県で働いている現職教員について、特別の試験をして呼び戻したのです。高校教員は県ごとに給与が違います。兵庫県はおじさんの県より給与が高かったのですが、高いままの給与で採用してくれました。おかげで、おじさんは退職するまで同じキャリアの教師より給与が高いまま過ごしました。
 こうして、故郷の県で33年間過ごしました。明日は依頼されている修士論文の添削を完成させなければなりません。また忙しいです。