新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

聖書の言葉

 今日は朝から昨日以上の晴天でした。卒業論文指導も一段落しました。先週はとても忙しかったです。結局今回の卒業論文指導全体では延べ10万字くらの日本語を読みました。大体1人1万字以上です。それに途中経過で提出されたものをを読んだりしたからです。
 中国人の先生は、指導と言っても感じたことをコメントするだけですが、おじさんは日本語を母語としているので、日本語としておかしい表現があれば訂正するし、内容的に不足しているところは補ったりしたので大変でした。「優」がもらえるかどうかは別として、とりあえず卒業できるレベルの論文にまでは仕上げました。
 さて、今日は久しぶりにツマクマと教会へ行きました。2週間くらい前からスピーチコンテストの指導でくたびれていたので、おじさん一人で教会へ行っていました。今日はスピーチコンテストの指導も終わったので、教会へ行くことができたのです。
 スピーチコンテストは結局3位だったようです。コンテストは特賞が2人(日本での本選にでることができます。)1等1名2等2名3等3名です。ですから、8名が表彰されるのです。ツマクマとしては、それほど能力のある選手ではなかったので、まずまずの成績であったと喜んでいました。
 今日の説教は日本でも何度も聞いたことのある内容です。今日の先生は分かりやすく、また、内容を短くコメントした中国語を表示してくれるのでとても良かったです。中国では説教が終わると会衆が拍手をするのです。義理でする人もいるのでしょうが、この先生の場合は大勢の人が拍手しました。
 今日はその説教の内容ではなく、おじさんがいつも見ている聖書に関するサイトで書いてあった内容を取り上げます。それは、なぜ「人は苦難に出会うのか」ということに関する回答なのです。
 1 人の悲しみや苦しみを思いやる力を持つため
 2 神を依り頼むことがどんなことかを知るため
 3 あらゆる事の中で感謝することを学ぶため
 これはなかなかおもしろい考えて方です。苦難を経験しない人はいないでしょう。そして、なぜ自分だけが苦難に会わなければならないのかと思います。もちろんおじさんもそうです。なかには神も仏もあるものかと思うでしょう。そんな時にちょっと視点を変えてもらえれば良いと思います。
 もちろん先に書いた内容は以前から聞いたことがありました。でもいろいろ苦難を経験すると本当にそうだと思えるようになりました。特に2こそが、信仰の信仰たる所以です。現代人は信仰をばかにして、自らを絶対のものとして確信していますが、(「俺様主義」などがその代表です。)おじさんの短い62年間の経験から言えば人間の力など本当にちっぽけなものなのです。
 そもそもおじさんが中国に行くようになったことも、おじさんの大学で教えたいという祈りに答えたものだと思っています。人間は何かの使命のために神様からあらゆるところに派遣されるのだということは聞いていました。まさか自分がこんな中国の内陸部に使わされるとと思いもしませんでした。神様は人間の知恵や経験を超えたことをなさると思いました。だから神に依り頼むことができのです。
 今日は極めて個人的な内容になってしまいました。おじさんのブログは、信仰から国際政治まで幅広く扱います。おじさんのひとりごとなので、内容に反発を感じる方は無視して結構です。明日はのんびり過ごします。もう少し、卒業論文関係の質問があるかもしれません。