新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

友人ミヤジイのこと

 今日はミヤジイとの会食会でした。ミヤジイについては、FC2ブログの読者の方はよくご存知だとおもいます。しかし、こちらの方はほとんど知らないと思うので今日はミヤジイのことを中心に書きます。
 ミヤジイはおじさんと同じ年齢です。おじさんの出身の街と湾(といっても渡船で5分くらい)をはさんで別々の街です。おじさんの街はどちらかというと漁業基地で、日本最大の漁業会社の基地がありました。そのため基地の隣には缶詰工場(東洋製缶)もありました。
 ミヤジイの街は石炭の積み出し港として有名で、映画にもなったところです。今はどちらの街も今はさびれています。そのミヤジイと知り合ったのは、おじさんが定年になる前に勤務していた高校です。おじさんの方が先に赴任して、その後偶然同じ年齢だと知って以来親しくなりました。
 ミヤジイは数学教師でおじさんは国語教師なので科目は全く別です。しかし、お互いに勉強好きだったので、すぐ親しくなりました。ミヤジイは数学教師の傍ら数学史や数学教育などについて論文を学会で発表していたのです。おじさんとは分野は別ですが、お互いに高校の雑誌に論文を載せたりしていました。
 そして、定年前に勤務していた高校で某教育大学の大学院に二人で進学したのです。ミヤジイは数学教育専攻、おじさんは学校教育専攻です。しかし、この教育大学の大学院は専攻以外の科目の履修も認められていたので、臨床心理学などの科目を一緒に履修しました。
 こうして現在に続くキャリアを積んだのです。その後おじさんの現在につづく出来事がありました。ミヤジイは定年後海外でボランテイアをする予定でした。しかし、理数系の先生はいらないけれど、日本語教師は需要があるよと言われて、日本語教師を目指しました。
 定年後ミヤジイは数学教育研究の成果が認められて、某国立工業高等専門学校高専)の教授になり、今は主任教授になっています。おじさんの話を聞いて大学院に行ったので教授になることができました。現代では、どんなに研究業績を上げても、修士の学位がないと教授になるのは難しいです。
 またおじさんも、ミヤジイから日本語教師の話を聞かなければ、大学で教えることもなかったでしょう。おじさんは本当は日本の大学で教育学の講師になりたかたのですが、今は若い人が余っているのでむりでした。おまけに中国では専攻に関係なく修士の学位を持っていることは圧倒的に有利なので、おじさんにとっても大学院進学はよかったです。
 今日は何と中華料理の会食でした。といっても日本風の中華料理なのでとても食べやすいです。珍しく昼間から二人で生麦酒をそれぞれ2杯飲みました。とても楽しかったです。ミヤジイは中国問題にも詳しいので、それに鉄道マニアなので、鉄道のことにも詳しいです。
 本来は63歳で定年なのですが、もう一年やるそうです。天下りも高校教師の世界にはあります。平教師はむりですが、校長ともなれば関連の専門学校や予備校の校長として赴任します。といっても簡単にいえば募集係です。
 おじさんたちのような天上がりは珍しいです。以前は高校教師から大学教師になるケースも結構あったのですが、今はほとんどありません。(博士号をもったフリーターもどきの人が大勢いるので)しかし、おじさんたちは不思議なほど恵まれた人生でした。(二人とも大学や高専で教員ができたから)
 芸は身を助けると言いますが、勉強は身を助けるという言葉もあると思います。中国で3年日本語教師をすると日本の大学でも非常勤講師に応募できるので、来学期までは何とかやりたいと思っています。日本に帰ったら近くの大学や短大で非常勤講師をするのが夢です。(常勤は年齢的に無理だとおもうので)
 明日は、二女一家がきているので、教会はお休みです。参議院選挙は結論が出ているようなので、結果に興味はありません。