新おじさん教師のひとりごと

長年高校教師をした後、中国の大学で日本語を教え、3年間過ごして帰国しました。今は引退して年金生活です。個人的な意見を書いています。

出身校訪問2

 今日はにわか雨がありました。おかげで少し涼しくなりました。今日は白アリの調査だったのですが、建物の関係でできませんでした。8月23日に中国に帰るので、それまでに工事の目途をつけねばなりません。いずれにしても、8月中には工事はできないようで、おじさんたちが中国に帰った後の工事のようです。
 
 さて今日は昨日に続いて出身校訪問です。今日は出身大学に行きました。ここに行くのは7年ぶりです。7年前に行ったのは、昨日訪問した大学の大学院を受験するための成績証明書や卒業証明書をもらうために行ったのです。全体の様子は7年前とそれほど変わっていませんでした。車で40分くらいのところにあります。
 
 おじさんの出身大学はもともと外国語大学(創設当時は外語専門学校)だったのですが、学部をしだいに拡大して、現在は工学部までできました。おじさんは文学部の出身です。おじさんの頃は外国語学部と商学部だけで、その後文学部が創設されたのです。さらに法学部もできました。
 
 その後学部名が変更になったり、文系の新しい学部もできたようです。おじさんは文学部の1期生です。文学部は新設学部だったので、先輩もおらず全て手探りでした。昭和41年のことです。あれから40年以上経過します。卒業生は外国語大学の伝統から教職が多かったです。しかし、今では教職以外に政界では国会議員や企業では大企業の社長さんもでています。ちなみに、この新設の文学部に行かなかったら、別の私立大学の経済学部に進学していました。(そうなったら運命も変わっていたと思います。)
 
 今でも敷地はとても狭いです。創立当時の先輩(実は高校の時の担任の先生)に聞くと、戦争が終わって、旧陸軍の駐屯地を平和利用することになったそうです。そこを他の国立施設と分け合う際、こじんまりとまとまる方がよいだろうということで、現在の狭い敷地になったのだそうです。
 
 その後その地域は様々な国立の施設ができました。もともと国有地なのですから当然です。まず国立病院、国立大学の分校、それに何と刑務所、さらに自衛隊の駐屯地などが広がっています。もし、最初の段階でひろい敷地をもらっていたら随分事情は変わったと思います。(その後国立大学の分校は昨日行った大学に統合され移転しました。)
 
 日本でも珍しく、大学の正門と自衛隊の正門とが道を隔てて向かいあってあります。学生運動が激しかった時代には、自衛隊も厳戒態勢を組みました。もちろんおじさんの大学は基本的におとなしいので、トラブルはありませんでした。逆に大学紛争が起こる前には自衛隊から隊員の人が夜間部に通っていました。何と言っても、大学が歩いて5分のところにあるので、通学しやすかったようです。(大卒の資格があると幹部候補生の試験が受けられるのです。)
 
 5時になると自衛隊の終業のラッパがなるので、それを聞いてああもうすぐ授業も終わるなと思っていました。また、大学キャンパスは以前米軍も使っていたようで、ある建物のトイレには英語表示もありました。一番古い校舎は旧軍当時のものだとも聞きました。戦後20年たっていたのに、大学の中には戦争の雰囲気が残っていました。
 
 今日はおじさんの指導学生さんがもし、入学すればお世話になる予定の先生を尋ねました。本部の10階に研究室があって、初めて本部棟の10階に行きました。エレベーターは外の部分が透明で広がる市街地が見えました。公立大学なのになかなかおしゃれな雰囲気でした。
 
 おじさんの時代と一番違っていたのは事務の人がとても親切なことです。おじさんが大学生の時は事務の人は学生ととても仲が悪く、不親切でした。考えてみればおじさんは年長者で学生ではないのですから当然かもしれません。ただ学生さんとの対応をみていても以前より親切なようです。
 
 いろいろ資料をもらって帰りました。おじさんも来年中国での仕事が終わったら、この大学の大学院で講義を受けるつもりです。2単位で29000円程度ですから安いものです。2単位で半年間1科目を受講できます。カルチャーセンターでも週1回で5000円くらいですから。それに大学院の場合学生さんは3~5人程度なので勉強も楽しいです。
 
 これで大学訪問は終わりです。週末には親戚の人や子供(孫つき)も来ます。日曜日は日本で久し振りの聖餐式があります。8月に入ると日本滞在も残り3週間になります。